10/27 チェンバロでインヴェンションを弾こう 終了
10/27 チェンバロでインヴェンションを弾こうを開催しました。
2時間という枠に、バッハの《インヴェンション》という大きなテーマを入れるのは、なかなか頭を悩ますところですが、
自分がどうしてピアノで留学しなかったのかを考えると、
どうしてもエディションの歩みをお話しないわけにはいかない、と考えて、
今回は楽譜と一緒にトランク移動。
全ての楽譜には、版元や編集者の手が入ってしまうので、
・指番号
・フレージング
・強弱・・etc. が微妙に違いますよね。
時代とともに、
楽譜の読み方と拍の感じ方が変わっていくんですよね。
下の画像のようなバロック時代の何も書いていない楽譜を見て、
かのクララ・シューマンは
「何も書いていないのだから何もしてはいけない」と言い
クララと同時代のリストは
「何も書いていないのだから、その解釈は演奏家の任意によるべきである」と主張していたのですから
同じヨーロッパでさえ、バッハの死から100年後には、演奏法がわからなくなっていたようです。
少し前までは、まことしやかにこの論説が正論のようにされていたようですが、この両者の見解はどちらも間違っています。
ではどこから答えを見つけるのか。
それには、
バロック時代の演奏法に関して言えば、
バッハの息子たちや、同時代の教育者、理論家たちの残している資料が、重要な手がかりになるでしょうし
さらには同時代の美術、文学、哲学などの他分野からの
総合的なアプローチをかけることで、
欲しい答えに近づいていくものだと思います。
古楽奏者というのは、
単に古い楽器を使って演奏するのではなく、
その時代の奏法を後世に伝えていく使命を背負っており、
さらには、時代とともに変わりゆくメディア(楽器)とどう共存していくのか(はたまたバッサリ否定するのか・・・?)を考えていかなければならない・・・と、
(あくまで私の個人的見解ですが)
未来を見つめながら、
私は過去と現代とを行ったり来たりしています。
こうして毎日、脳内移動してますが、
ああ、やはりドラえもんのタイムマシーンが欲しい。
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