帰国14年目突入

こんにちは
水野直子です。

1/31、イタリアから完全帰国をして
13年が経ちました。

今日から14年目に突入です。

いつもこの時期になると
色々な思いが交錯します。

1月は、恩師ラウラ・アルヴィーニ先生が亡くなった月。
先生の死はヨーロッパの古楽界にも
大きな衝撃を与えました。

先生に2002年からレッスンを受けました。
2003年には、ヴェネツィアの
サン・ジョルジョマッジョーレ島内に位置する
チーニ財団の
「エジダ・サルトーリ奨学生」に推薦していただいて
パガニーニの超絶技巧をテーマにした
シューマンとリストをフォルテピアノで勉強する機会をいただきました。

2004年7月下旬、
奨学生最後の日に
ラウラ先生とヴェネツィアで合流し

「またミラノの学校でね」
と言って、
頬にキスされて別れたのが
ラウラ先生の姿を見た最後となりました。

秋になり、
新学期が始まって、
私は当然のように
また先生と勉強できる、
今年はあれも習って、これも弾きたい、
などと考えながら
ワクワクしながら先生の入室を待っていると
目の前に現れたのは、別の教授でした。


そして
「ラウラは体調不良だから、学校をしばらく休むことになった」と
いつも笑顔の絶えないその教授が
ゆっくりと低い声でそう話した様子は
あまりにも異質で、、今でも脳裏に焼き付いています。

それからすぐに、私はラウラ先生に
メールを書いたり、
お見舞いの贈り物をしたりしていましたが
ラウラから
「ナオコ、とても悔しいけれど、これが最後の手紙になります。春になったら木が芽吹き、花が咲くように、あなたにも花が咲きますように」
という文を最後に
私たちの文通は終わりました。
秋も深まる頃でした。

学校には
ラウラよりも10歳以上も年上の、
スカルラッティの権威、
エミリア・ファディーニ先生が
レッスンを代講してくださることになりました。

当時、エミリア先生は、すでに70歳を超えていらっしゃって、
ミラノの国立音楽院も退官され
ベルガモ郊外にお住まいでした。
1時間半、車を運転して、
私のレッスンにミラノまで来てくださっていたのです。

ラウラ先生の訃報は、
エミリア先生と一緒に
ミラノのコンセル内の図書館で調べ物をしていた時のことでした。

エミリア先生の携帯がなり、
二言三言話したかと思うと
顔を私に向けて
「ナオコ、残念だけど、ラウラが今亡くなったって。辛いね」
そう言って、
涙をこぼしながら、二人で抱き合いました。

そのエミリア先生も、
去年亡くなられました。

エミリア先生が亡くなられてから、
私はまだ、先生と勉強した楽譜を開けずにいます。

数日前、ある方より
エミリア先生の門下生による追悼文をいただきました。

少し目を通しては、目をつぶり、
先生との日々を思い出しては
目頭が熱くなって
ちっとも先へ進みません。

イタリア留学時代の自分は、
勉強できることに感謝をしていたとはいえ
それは決して楽しいだけのものではありませんでした。

自分から飛び込んだとはいえ、
あれだけ弾いていたピアノの蓋を一旦閉めて
チェンバロの技術を30歳目前から学び
それなりの形にする、と
飛び込んだは良いものの
ピアノとチェンバロの違いに悩まされました。


言葉の壁もありました。
差別だって、何度受けたかわかりません。

でも13年経って振り返った今、
音楽で悩んできたことは全て宝になっているし
日常生活で受けたあれやこれやも
時が癒してくれました。

私の使命は「芸術を後世に伝える」です。
雑念を捨てて、
本気で取り組む時期が来た、と感じています。

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