大人になった今こそ味わいたい──バッハ《インヴェンション》第3番の魅力
バロック音楽が好きな方や、チェンバロに惹かれるピアノ学習者の方の多くが、一度は触れるバッハ《インヴェンション》。
インヴェンションは、大人になってから弾くと、子どもの頃とはまったく違う景色が見えてくる曲です。
「なぜインヴェンション3番は、大人になってから深く響くのか?」
「バロック的な“呼吸”とは何か?」
ちょうど《インヴェンション》第3番をレッスンしていたこともあり、
今回は、私が長年演奏し、そして指導してきた経験から、
この2つを、わかりやすく、でも少し専門的にお伝えしたいと思います。
■ インヴェンション3番の“くるくる”がもたらす幸福感
冒頭の16分音符が、まるで光をまとった細い糸のようにくるくると回りながら上昇していきます。
この上昇音型は、バロック期の記譜法で「アナバシス(上行)」と呼ばれる典型的な修辞。
音が上へ向かうことには、
- 高揚
- 希望
- 明るさ
- 推進力
といった象徴的な意味があります。
大人になってから弾くと、この“上向きのエネルギー”が、身体にも心にもスッと入ってくる。
忙しい日々の中でふと立ち止まり、気持ちを引き上げてくれるような曲だと感じます。
■ 「アウフタクトが難しい」──その理由と、バロック的な解決法
インヴェンション3番を教えていると、
「アウフタクトに自信が持てないんです」
「入りが毎回バラバラになってしまう」
という声がとても多いのです。
でも、アウフタクトは“数える”ものではなく、
「呼吸で入る」もの。
◆ バロック音楽は“呼吸”で始まる
私たちが弾いている鍵盤楽器をはじめすべての器楽は
歌の呼吸の延長で作られています。
だから、息の流れをそのまま音に乗せるつもりで弾くと、
- 拍の自然な前後感
- 音楽の方向性
- アウフタクトの軽やかさ
が一気に整うのです。
■ 「大縄跳びにスッと入る感じ」でアウフタクトは変わる
アウフタクトの感覚をつかむために、よく生徒さんにこんな例えをします。
──子どもの頃、大長縄跳びにスッと入れたあの瞬間を思い出してみてください。
あの時、
- 回る縄のリズムを身体で感じ
- タイミングを“呼吸”で取り
- 音楽の波(=拍)に自然に乗っていた
はずです。
インヴェンションのアウフタクトも同じ。
「ここで入ろう!」と頭だけで考えると固くなりますが、
音の流れに自分の呼吸を合わせると、驚くほど自然に入れます。
■ チェンバロで弾くインヴェンションの魅力
ピアノで弾くインヴェンションももちろん素晴らしいですが、
チェンバロで弾くと、この3番はまた新しい顔を見せます。
◆ チェンバロの“立ち上がりの速さ”が、音型を輝かせる
チェンバロは、鍵盤を押した瞬間に音がパッと立ち上がる楽器。
この特性が、
- くるくるした16分音符
- 跳ねるようなアウフタクト
- 明るいD-durの響き
を、より軽やかに際立たせます。
バロック時代の作曲家が想定していた響きに近づくという意味でも、
チェンバロでの練習や視聴はとてもおすすめです。
■ 大人になってから弾くバッハは、見える景色が変わる
インヴェンションは、バッハが息子フリーデマンのためにまとめた教育作品ですが、
実際には大人の学習者ほど、その奥行きに気づきやすい作品だと感じます。
とくに3番の上行する16分音符は、
大人の耳と心に、すっと馴染む“前へ進む力”をそっと与えてくれます。
もししばらくインヴェンションから離れていたら、
気負わずに、まず3番を数小節だけ弾いてみてください。
シンプルな音の中に、
年齢を重ねた今だからこそ感じられる“手応え”がきっとあります。

